10時開店の店は、10時「ごろ」開店でいい。

タイトルを見て、「意味がわからん」と思われるだろう。

1年間ブログを放置したあとでいったいなにを書き出すのか、という話もある。実はその放置っぷりとこのタイトルは関係がないわけではない。

この1年、なにをしていたかというと、主に休んでいた。去年前半は仕事をしながら毎週日曜日だけのお店を始め、好評好調だったのはよかったが自分の余力がなくなってしまった。そういう事情で、お店も閉めてしまい、寝て暮らす日をふやし、もとからケチなDIY好きな性質を活かして、お金をかけずに生活を楽しむ方法を開拓するのに勤しんできた。今年に入ってようやく、環境を変化させつつmastodon1でのリハビリを経て、ようやくブログ記事を書き出している。

そもそもSNSやブログをやる意味はなんなのかというとよく「自己承認欲求を満たす」という話があるが、いまの自分の場合はそれよりも、自分のなかで起きていることをまとめて外に出しておきたい、という要求が強いようだ。

そのために何かをまとめたりする作業にはそれなりに力がいるのだけれども、ここ1年の自分は言いたいことは常にあるわりに、あえて書きたいとか発信したいとか思わなくなってしまうくらい弱っていた。仕事向けのウェブサイトは作らねばならないけれど、わざわざ個人的なブログをまた書こうというのも、mastodonで意見を求められてはじめて頭に浮かんできたくらいだ。

前置きが長くなったけれども、誰でも調子がいいとき、悪いときというものがある。生き物なのだから当たり前の話で、調子が悪くなったら、休むべきだ。毎日10時に開店するなじみの本屋さんが、ちょっと飲みすぎて寝坊してしまい、大慌てで準備したけれど開店が10:30になった、とかそういうことだって当たり前だろう。

ところが、いまの日本では仕事だろうが人との待ち合わせだろうがほとんど定刻前行動を要求される。それを破ると白い目で見るのが当然の反応だ。でも、これって自分たちが生き物であるということを忘れてはいやしまいか。組織というのはそもそも、そういった生き物としての不安定さを吸収し、継続性のあるサービスを提供するために生まれるものだったはずだ。

そんなことを考えた上で自分の心理や他人の言葉を眺めていると、「決めた時間は絶対に守らなければいけない」という刷り込みが働いているようなのだ。1年もポヤポヤ過ごしているうちに自分が変化してきたおかげで気付いたのだが、いまは「辛い時に遅れて何が悪いのか」とはっきり思えるようになってきた。といっても、別に遅刻をOKにしろと言いたいわけではない。

問題にしたいのは、なぜ遅刻は「悪」と思ってしまうのか、ということだ。

「遅刻したら仕事での評価が下がる」
ごもっとも。

「人との待ち合わせに遅れたらいい加減な人だと思われてしまう」
まあそうかもしれません。

でも、仕事での評価が下がるのは「悪」ではなくて「損」じゃないのか? 人からいい加減な人だと思われることは本当に避けるべきなのか? 人との関係でなにが重要なのか、と考えた時、「あの人は時間を常に守るから好き」なんて評価がその中心になっていることなんてあるだろうか? 少なくとも自分はそんな関係は御免被る。

臨機応変という便利な言葉があるが、「30分店を開けるのが遅れたから、じゃあ30分遅くまで営業してみよう」とか、「あの子が待ち合わせに遅れてくるなら、ついでにその辺でなにか喜びそうな小物でも買えないか見て回るか」とか、遅れる側も待つ側も、できることはいくつもあるはずだ。だからこそ、いろいろな国の遅刻エピソードがネタにされてきたように「お国柄」として遅刻が半ば当たり前のところだってあるのだ。

いまの日本のように、ただひたすらに「時間厳守できないことは悪」という心理ばかり刷り込まれてしまうと、他の人が余裕をなくして遅れたときにも自動的に悪だと思ってしまうだろうし、そういう心理が相手をさらに萎縮させ、お互いに「時間を守らなければいけない」というルールを固定化して考えるようになる。遅れる側も、自分が遅れる原因や全体の状況を鑑みることがなくなり、無理をしてでもそのルールを守ろうとする。守れなければ自分自身の評価を下げ、本来は瑣末な遅刻かもしれないことで自己嫌悪してしまう。

遅刻に限った話ではないのはもうわかってもらえるだろう。美徳や金科玉条を定めて、ただそれに従う心理を育てていくと、何か既定路線と違う変化が起きたときに、対応する反射神経のような力もなくなってしまう。ひとりひとりの心のなかから、「なぜこれは大事なんだっけ?」「じゃあどうしようか?」という発想が削り取られ、「自分はダメだ」ということが積み重ねられた結果として、生命力が失われていく。そして個人から生命力が失われれば、組織や社会も勢いを失っていくことになる。

もちろん「決まっていること以外には対応できない/したくない」(めんどくさい)というのは、人間の習性としてはある程度は当然のこと。新しいものごとに触れるのは恐怖でもあるし、自分で考えて判断するのには気力が必要だ。だから、何にでも臨機応変で居続けるのは疲れる。だからといってひとつひとつの物事に正面から向かうことを怠っていれば、使わない筋肉が脂肪になっていくのと同じように、変化に対応する能力そのものが消えていってしまう。

そのとてもわかりやすい例が差別だ。他者を特定の、自分に都合の良い型にはめて見ることはそのもの、その時々の判断を放棄し、目の前の世界に予断なく接し臨機応変に対応することを怠けることだ。だから差別する人たちは個々の事象ときちんと向き合おうとする姿勢に欠け、新しいものを拒否し変化に抗おうとするし、当然ながら多様性も拒否することになる。

「食べ慣れた料理以外は箸をつける気にもならない」という人は世界中にあるいろいろな美味しさを知ることもないだろう。
「普段と違う道で帰ってみよう」と思うことがない人は、自分の住む街のことも知らないまま過ごす。
「この色しか似合わないんだよ」と言って同じものばかり着続ける人は、服を着る楽しみを知ることもない。

そういう生き方を選ぶのはもちろん自由だ。でも、それを他の人にまで押し付けるのは迷惑千万で、一緒にしてもらっては困る。もともと好きなものを好きというのにも「空気を読む」ことが要求されるような文化のなかでは、相当に気をつけておかなければ自分もその同調圧力に与することになってしまう。

だから、ちょっと人の行動に幅を持って接してみる。ただし、なんでも受け入れるということではない。どうやら世界にはほとんど無意識な場合も含めて「相手を支配したい」という欲求があふれている人がかなりいるようなので、自分の心を守る線はしっかり持っておかねばならない。そういう人たちこそ5分の遅刻でもずっと当てこすりを言い、こちらを萎縮させて自分を優位にしようとする。

より具体的に言うと、「幅を持って接する」というのを、まず自分自身にあてはめることだ。人によってなにを着るか決めるのにかかる時間や交通機関を利用する力も千差万別なのだから、遅刻したっていいし、体調が悪ければ休めばいい。人間は組織の一員である以前に生き物なので、常に一定でいられるわけがない。そのことを認め、まず自分に優しくなる。自分を、社会的には欠点とされる要素も含めて、受け入れてはじめて、他人や世界を測る自分だけのものさしが手に入る。自分の欠点は本当に欠点なのか? それを考えられれば、他の人に優しくすることだって、少しは簡単になる。

Michael Jacksonが歌った“Man in the Mirror”を、またここでも貼っておく。

“‘Man in the Mirror’ has a great message, I love that song. ..Start with yourself. Don’t be looking at all the other things. Start with you. That’s the truth.”
-Michael Jackson from “Moonwalk”

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