自己嫌悪という病

自己嫌悪。若い時には特に、誰もが感じたことがあるはずの感情。

「どうして私はみんなのように決まった時間に起きれないのだろう、なぜこんなにダメなのだろう」
「なぜ自分は彼女のようにうまくみんなと話せないのだろう」
「なぜ私の足はこんな形なんだろ、これじゃあ好きな服が着れないじゃない」
「なぜ僕はやることなすこと、失敗してしまうんだろう、最低だ」

「こんな自分、大っ嫌い!」

僕は10代の頃、女の子と何を話したらよいかまったくわからず、興味津々なのに臆病で話しかけることもできない、どう振る舞ったらいいかまったくわからずにいた。自分のそういう部分がいやで仕方なかった。でもいろいろな経験を積むにつれて、こういう感情を持つことははっきり言って無駄で、それ以上に多くの人にとっては害でしかないと考えるようになっていた。

そうなった理由の1つはカミュとの出会いではあるのだけれど、それはもっと大きな話なのでここでは流すとして、大学に入る頃には「自己嫌悪は時間の無駄だ」と考えるようになっていて、以降、周囲の友人たちのなかにそういう感情を見つけるとなるべく「そんなことを感じている間は前に進めないよ」と言ってきた。うまく伝えられていたかは、いまとなっては疑問だけれども。

この自己嫌悪は何の役にも立たないどころか人にとって有害だ、ということは、常識として知っていくべきことだと思うのだけれども、相手の年齢によらず、いまだにそういう「自己嫌悪」に遭遇することが驚くほどたびたびある。

ということで、なぜこのやっかいな感情が害になるのか。改めて文章にしてみたい。

自己嫌悪は自分を拒絶し、現実から眼をそらす

自己嫌悪が人にどんな効果をもたらすか。
簡単にいえば、それは自分を受け入れることを拒み、現実から眼をそらす効果をもっている。

例えばある友達は、僕と似ていて(笑)朝が弱い。起きられないことがしょっちゅうある。そのことをとても恥じていて、寝坊するたびに「私はダメだ、みんなに迷惑をかけて……」と言うけれど、でも寝坊が改まることはない。

また、僕の知っている50代の男性は、何か失敗をしでかした時に「申し訳ない、僕が至らないばっかりに……」と謝るのが口癖のようになっている。でも、その後、彼の行動が改まることは、ない。

なぜか。

共通して、ただ謝罪し「自分はダメだ」と自分を否定している。こういう人たちは「あるべき自分」は「失敗する自分」ではないと思い込んでいて、失敗してはいけないとまじめに思ってはいる。でも、実はそのあるべき自分と現状の「落差」ばかりに注目していて、「現状の自分」そのものを受け入れるところには意識が向かなくなっている。だから、本当のところでは「自分が失敗したということを受け入れられていない」ので、自分の失敗を受け止めて、また失敗を繰り返さないように具体的な行動を起こすことはない。

「そんなことはない!」と言いたくなるかもしれない。

でも、例にあげた女性は、本当に寝坊するのは嫌なようだけれども、やめられない。やめられないなら、寝坊しても平気な形で生活できるように、仕事の調整をしてみることを考えたことはあるだろうか? 通勤時間が短くなるように引っ越すことを検討したりしただろうか? 転職を考えたりしただろうか?

問題の男性は、「至らない」=「自分にはその能力がない」と言っているが、だったら最初からそう言って仕事なりをタスクなりを引き受けるべきではない。その能力が自分にある、と一度は判断したのであれば、予定より遅れてもどうにかやってみせるか、「自分には無理だったから、助けてほしい」と周囲に頼んだ方が良いだろう。いくらでもできることはある。

自分を受け入れることの効用、または高揚

自分を変えるには、自分を嫌悪するのではなく、失敗する事も含めて自分を受け入れてしまったほうがいい。

言わずもがな人には欠点があるもので、なかったら神様だが、その欠点が美点になる場合だってあり得る。そこを改善しようとするにしても、開き直って違う環境に向かうにしても、自分のその欠点をまずは認めて素直に受け入れなければ、自分が変わるきっかけはいつまでもやってこない。自分を哀れんで嘆くことは実はある意味では楽で心地がよいものなので、そこにまじめにはまり込んでいては一歩も動けないものだ。

「とことん落ちきったら上を向くしかなくなる」という精神論はよく語られるけれども、実際には落ち続けることは本人が飽きないかぎりいくらでもできるから、どこが底なのかは自分で決めるしかない。現実の自分を見て、どうなりたいのかをしっかり見定める。そうなって初めて人は変わる。

ある知人は「ウェブ制作の世界で働いているのに技術的なことをぜんぜん知らない、弱い」と口にしていたけれど、そういう自分を決して嫌ってはいなかった。だから気負いなく詳しい人に質問をし、読むべき本を教えてもらい、自分で手を動かしてみることで「欠点」を克服しつつ、長所である調整力、企画力を存分に発揮している。

あるアーティスト志望のデザイナーは「自分には特に主張したいことがないんです」とあっけらかんと認める一方で、作リ続けることで何かを見出しつつあり、周囲の評価も上がってきているようだ。

すごく当たり前のことだけれども、自分をそのままで認めること。理想の自分を探したりしないで、欠点と良い点をそれぞれに感じ取る。そうすることで初めて、比較的実像に近い「自分」の姿を「主観する」ことができる。現実的に考えれば「客観視」というのは本質的に不可能なことなのだから、主観で十分だし、「自分」は探さなくてもすでにそこにある、そのことに気づくだけでいい。そこで初めて、僕らはスタートラインに立つ。

自分のいろいろな部分を素材として、どう過ごして行きたいのか、何を感じていきたいのか、どう生きるのか。そういう心の動きを眺めてみれば、自己嫌悪なんてものに使う時間はただただ浪費でしかないことがわかってくる。その浪費を自ら選んで楽しむ、という人だってもちろんいるのだけれど、それはもう自己嫌悪ではない。そういう自分を意識しただけで既に、泣きながら笑っているbluesみたいな生き方になってしまうのだから。