深夜作業後の……[推敲版]

編集とかエンジニアとかやってきた経験上、ある程度、自分のペースを守りながらでないと仕事ってきっついよねー、と振り返る深夜帯。もちろん、かつてはよくあったことで、3日家に帰らずに働くとか若い時はざらだったし、去年ですら36時間ぶっ続けで働くとか意味の分からないことをやらざるを得なかった。

そういう経験を経てきた自分が、同じようなことをしている若い人を見て思うのは、若いから徹夜してなんとかできるっていう働き方「だけ」では成長に偏りがでるってこと。

修羅場を知ってることはまあ悪くはないけど、そこに巻き込まれてばっかりいるのはなんの自慢にもならない。若さとか勢いでしのぐんじゃなくて、自分なりの働き方で自分なりの成長をすることができないといかんのだもの。その修羅場から何を得るのか。修羅場にならないようなスケジュールや予算の管理、保険のかけ方、クライアントの説得方法、完璧に早く仕事を仕上げる製作技術……。いろんな要素が絡み合って仕事と言うものへの理解を深めていく。

引いた視点で見ると、その成長は基本的には自分の時間に対しての単価で計らなきゃ食ってけないんだけど、会社とか組織の中にいるままでは、そういう判断基準がちっちゃくなりやすかったなー、と(転職歴7、8回という)自分の少ない経験からは感じるのです。

やりたいことがはっきりしてる人はまだいいけど、おれみたいに(そう見えないかもしれないけど特に仕事については)本質的にのほほんと生きてると、いろんなタイミングで出会う「燃えてる」ひとはすごいなーと感じ入るし、そういうひとは独特の変化をしてるんだよね。

でも、いろんな尺度があるってことを忘れずにいきましょう。退化だって成長なのかもしれない。変わらずにい続けることだって、それは継続による洗練かもしれないし、もしかすると惰性による怠惰なのかもしれない。

ときおり、気が向いた時で良いから定点観測みたいに自分を見るための、顕微鏡や望遠鏡や映写機をいくつか、気持ちと思考の中に持っておくと、面白く生きていけると思うのです。

例えば、かつて組織の中での評価に傷ついた自分を振り返ると、自分の能力不足はもちろんとして、なぜそうなってしまうのかを考えられる管理職も存在せず、その組織自体が固定化している証拠としての自分の傷があったのだな、とわかる。

そういった傷ははっきり言って自分の人生には不要なものなので、思うように働けない環境からはさっさと足を洗ってきたけれども、それでもやっぱり傷つきはする。そういう時、自分にはダンスがあり、音楽があった。特に踊ることは、自分の負った傷を直してくれる、素晴らしい瞬間をたくさん与えてくれている。

自分の価値や生きる意味を本当のところで実感させてくれる、そういう瞬間。身体も頭も、心も舌も目も耳も、この手も指もそのためにある。だらけて暮らしていたいけれど、そうするためにこそ鈍らせず、研ぎ澄ませていたい。

やっぱり、身体も心も、ひとつひとつのことが、全部つながっているのです。

刹那的に生きてきた自分でも、ようやくそれがつながっていく感覚へ拡げてこれたような。

「人生」という、口にするのも気恥ずかしいような言葉でしか表現できないなにかを、年齢なりに感じ取りつつあるように思います。

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