本当は音楽批評なんていらない!

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父の日でしたね。ですが内容は全く関係ありません(笑)。

わたくし、かつて8年ほどnotrax.jp(現bmr.jp)という音楽サイトの制作を担当していました。その他、フリーペーパーやダンス雑誌などで音楽レビューというのを飽きるほど書いて実際飽きたんですが、あんなもの本当に意味ない、というおそらく世間的に見れば暴言を少し書かせていただきます。

本当は音楽批評なんていらない! という話。

当時やっていたそのサイトは、Hip Hopを中心にR&BやときどきDance Musicも混ぜ込みつつ、Black Musicやその周辺情報を調べあげてなるべく信憑性の高いニュースを流す、というのをメインに、来日アーティストのインタビュー、新譜レビューなどを載せていく、まあよくあるやつです。まだまだ今のような「キュレーションメディア(笑)」みたいなものが出てくるよりずいぶん前の話でもあり、よりニッチな「海外ネタを日本にも紹介しますよ」サイトとしてそれなりにアクセスも稼いでいました。

初期で何がアクセス稼いだかって言ったら、「パリス・ヒルトンの携帯がハックされてエミネムの電話番号までリーク」というアホみたいにくだらないネタだったんですが、普段のアクセスとは軽く(literally)桁違いのアクセス数をたたき出し「世の中腐ってやがる」と毒づきまくっていたのがいまだに忘れられません、はい。

で、その一方で音楽に点をつけるという作業も読んでくださった読者の皆さんには失礼な話ですが、「なんてからっぽな作業だろうか」と思いながらも苦労してやっておりました。世の中的にはアレですね、ファミ通の注目ゲームクロスレビューからPitchforkの10点満点評価まで「物事の良し悪しや価値を評価し論じること」はたくさんの商品・作品を扱うメディアにはほぼ必ずと言っていいほど登場します。

でもですよ。
どこに基準があるんですか、良し悪しの。

ポストモダンはすべてを相対化したとかまあそういう古い御託は置いといてですね。僕はいまD’Angelo & the VangurdsよりもA$AP RockyやNosaj Thing、Chet Fakerを聴いていたいし、2PacやN.W.A.の作品に心から入れ込んだことはありません。でもIce Cubeなら自動ヘッドバンガー化する曲が幾つもあります。映画“This is it”を映画館で見て我慢できずに号泣した自分ですがMichael Jacksonの曲でも好きじゃない曲はあります。

自分なりにそこには「好き嫌い」の尺度があり、それが重なる一定の数の人たちがいる。
その人たちに普通では気づけない、好きになれる要素を紹介する。
そういう「紹介者」であれば意味があるとは思います。

だから音楽好きでいろんな音や楽しみ方を知っている人に、「これは君が好きだと思う」と言われたらきっと聴いてみたいと思うでしょう。僕は若い頃、萩谷雄一さんという方の新作紹介が好きでした。うんちくとか分析とかじゃない。ただこの人はこれが好きなんだな、というその熱をどうにか伝えようとしてくれる文章だったから。

でも、そこで薦められた音楽とそうでなかった音楽とを比較して、実はそれぞれの存在に優劣はないのです。「技術的に素晴らしい」「メロディが斬新で中毒性がある」「これまでにない音色を響かせている」「いつもどおりだがそれがいい」「車で鳴らしたら最高のドライブになる」……それぞれの様々な点、様相で採点できることはあるけれども、究極的にはどんなクソみたいな音楽だって、そこに人の感情や状況が絡めば、なんてことない曲が個人にとって最高の作品に変化する可能性がありますよね。

そういう、よくよく考えてみれば当たり前のことをさらっと越えて、(TVなどを通じて)たくさんの人の耳に届き、多くの人の琴線に触れ続ける作品は歴史に残っていく。そういうものが名作として認められていくし、文化を形作っていくのが現実。でもその背景には数え切れないほどの「素晴らしい瞬間を与えてくれた曲」「仲間との思い出の曲」「名曲の下敷きになったかもしれない曲」が存在している。そういった歴史的「名曲」と「無名」曲との価値に、差なんて存在しないわけです。

ある程度、音楽の深みにはまった人なら「俺はこれが好きなのに、なんでこれが他の人にはわかってもらえないのかなあ?」という体験があるはず。それを形にして、その良さを少しでも広める。それが紹介者としての機能で、なにも文章である必要もなければ点数である必要もないのです。

一方で、それを実体験、ひとつの作品として昇華しうるのは、DJでしょう。
彼らの(ごく一部)は一曲一曲の中の魅力を重層的に理解することで作品の魅力を倍増させる、それこそ紹介者であり、教育者であり、アーティストとして成立しうる点になっている。その可能性はまだまだ広がっている一方ではあるんですが、話を戻しましょう。

もう一度書くと。

本当は音楽批評なんていらない!

音楽好きだな、と思った人一人一人が、少し自分の時間なりお金を投資して、好きなアーティストや曲を見つければそれでいい。いまは SHAZAMなんて素晴らしく便利なものもあるし、Youtubeもある。でも、残念ながら誰もがその「投資」をできるような理想の世界に生きているわけではない。だからこそ、そこで楽をさせてあげるために、「評論」が機能している。そういう楽をさせてあげるためのサービス業であるからには、評論家様の間だけで通じる言葉を使っているようでは困るわけであり、より多くの人に伝わるものを書いていかなければならない。

もちろん音楽を言葉で表現しきる、なんてことは原理的に不可能でもあるので、そもそも文章で批評したところで何がわかるのか、という無茶な挑戦でもあるわけです。ますます意味がわからない行為ですね(笑)。

自分個人としては、予断を持ってその作品に触れるくらいなら、何も読まずにとにかく多くの作品に触れてみること。それが一番の「音楽好き」の道ではないのか。また、実際に価値ある音楽を世に知らしめ、紹介者としての機能を文化にまで高められる、音楽の世界を変えられるのは、今やDJがその中心なのではないかとも、考え続けています。