不確実な「言葉」

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自分の場合はいままで、音楽やダンスのことばかりにかまけていたというのもありつつ、最近、政治や社会に向き合わざるをえない状況に追い込まれています。

とにかくひとりひとりが少しでも動かないと民主制度も宝の持ち腐れ、というのがはっきりしてしまった311以降の日本。ようやく政治の話をみんなで話し合っていかないとヤバ過ぎる、という意識が一部の人の間で広まり、ネットを中心に毎日々々、喧々諤々な状態が続いています。ところが、パッと見の匿名性に隠れて悪口雑言罵倒の限りを繰り返す人たち1は論外として、意見を戦わせようとする人たちの間でも不毛な議論に時間を費やしているのが目立ちます。

“argue”よりも”feud”という言葉が思い浮かぶような、議論になっていない論争の多くを見ていくと、そもそもいろんな人と話をする上での言葉が、あまりにもイメージ先行でお互いに理解されないままになっていることが多いのです。例えば「ヘイトスピーチ」。これ、誰もが知っている英単語の組み合わせなせいで単に「憎しみの言説」と思っている人が多いんですが、世界的な標準としては遥かに具体的で重要な意味があります。

hate-speech:
speech that attacks, threatens, or insults a person or group on the basis of national origin, ethnicity, color, religion, gender, gender identity, sexual orientation, or disability.
– dictionary.com Based on the Random House Dictionary, © Random House, Inc. 2015.

訳してみると「個人または集団を、出身国、民族、肌の色、宗教、性別、性同一性(自分がどの性別であるかという意識)、性的志向(性的に惹かれる性別)、障害をもとに攻撃、脅迫、非難する言説」となります。どういうことかわかるでしょうか?

その人の属性、それも(宗教を除いて)本人が選択したものではなく、生まれつき持っている特質を理由に攻撃する言葉のことです。わかりやすい例で言えば人種差別や民族による差別、性差別など。宗教や哲学を含む場合も多いのですが、これはヘイト・スピーチの概念を立法化している国ごとに法律で明文化されています。なぜ「憎悪表現」のなかでこれらが区別されているか……を説明するのは本題から逸れるのでみなさんそれぞれにお考えいただきたい2。ここで理解してほしいのは「意味をわかっているつもりでも、人によって理解が食い違っている言葉があるのは当然」ということです。

ヘイト・スピーチを例に挙げてみましたが、この他にも、そもそも民主主義、自由主義、個人主義、全体主義、共産主義などの「ナントカ主義」を始め、「差別」、「フェミニスト」、「右翼」&「左翼」に加えて「ウヨク」と「サヨク」などなど、多くの人がそれぞれの抱いている「イメージ」、「既成概念」にばかり引きずられて、相手の言っていることを理解していない、または理解しようとしない例があまりにも目につく。

自分でもカッとなって攻撃的な言葉を連ねることがあるので自戒も込めて書くのですが、そもそも言語でのコミュニケーションは同じ言葉を使っていても、「相手の頭のなかにある概念」と「自分の頭のなかにある概念」がぴったり一致することのほうが珍しいものです。

例えば。
「青」という言葉で、僕がまず思い描くのは自分のデスクに置いてある写真の、暁の水平線が描く濃い、どこか虹色の光を含む青です3。でも、この青をあなたと共有することはできない。仮にあなたがぼくの横に座って同じ写真を見ていたとしても、同じ色を見ている保証はどこにもない。なぜなら、あなたの目は自分と違う座標にあり、光を受ける角度も違い、そしてそして、根源的にあなたの神経組織が描き出す「青」がどんなものか、僕が実際に「知る」ことはできないからです。

言葉というのはそもそもそういうものだということを忘れないようにしないと「話が通じる」わけがない。意思の疎通ができているように思えること、それ自体で既に価値がある。その素晴らしさを感覚で感じ取れた時に、喜びや力が生まれる。それが、人間が他者とつながる(ように思える)ことに取り憑かれている理由でしょう。

何を話すにしても、それがいちど「言葉」に置き換わっている時点で、相手と同じ意味を共有しているかはわからない。だからこそ、丁寧に、しかし恐れることなく使うべきもの。それが言葉というものだと心に留めておく必要があり、そういう意識をもって紡ぎだされて初めて、「その人自身の言葉」で語ることになります。話をする人たちがこの前提を踏まえてようやく、議論の入り口に立つことができるのです。

もちろん、そのことをわかった上で自分の意見を押し通すために、互いの理解の違いや、先入観を利用する人たちもたくさんいます。でも、言葉を対話のために使っているのか、それとも論破のために使っているのかは、その言葉そのものが雄弁に語ってくれます。それをきちんと見抜いた上で、相手と対峙しなければいけない。

どうやら「民主主義」ってやつは、手間をかけないと育たないもののようです。

ps. 余談ですが、現在、実用に向けていろいろな研究開発が進んでいるというVR(仮想現実)は、この言語というものの使いづらい部分をまったく違う方向から助けてくれる可能性があります。脳神経を含む身体が描き出す「心象」を、言葉に置き換えることなく共有することができるかもしれないから。

そうしたら、僕らはもっともっと他の人に共感することができるようになるかもしれない。想像力に頼らずとも、文字通り「他人の痛みがわかる」ようになるから。それが実現したら、人間という生き物がひとつ、はっきりと進化することができるかもしれない、とも思うのです。

  1. 英語ではtrollと呼ばれる様になりました。
  2. 定義や世界的な法制についてはおなじみwikipediaをどうぞ。
  3. 写真家の笹原清明さんの作品です。冒頭の写真は僕が飾っているものとは違うのですが、同じシリーズの”ao”。